Chichen Itza 探訪その1 (Cancun, MX)
Cancunのホテルゾーン及びその付近にも遺跡は多くあるものの、ここチチェンはメキシコに残るマヤ遺跡の中でも最大級のもの。その文化的価値も高く、ユネスコの世界遺産に認定されているほど。
Cancunからは日帰りBus Tourで訪れるのが一般的で、もしくはレンタカーを借りて自分で運転していくことも可能。
時間的には、CancunからTour Busで片道3時間弱。現地での見学時間は、3時間程度が一般的なようだ。
チチェンは、ゆっくりみて歩けば一日でも足りないほどの広さだけど、ざっと「東京ディズニーランド」程度の広さを想像してもらえればいいと思う。
私の場合、Chichen Itza Tourに行くとは決めていなくて、「どっかの遺跡は見てきたいなぁ・・・」と思っていた程度。
で、Cancunへの滞在中にCentroに行ったときに、通りがかりの旅行会社にて「どこがお勧め?」と尋ねたら「Chichen」というので、その内容と金額を聞いてみた。金額は「Bus代+入場料+昼食込みでUS$45(N$420)」というので、「予定を入れていないのは明日しかないから、明日のTourに間に合うなら」という条件で、値切り交渉開始。
交渉の結果、US$37.7(N$350)でDone。相手は初めにUS$で金額を提示してきたが、こちらはペソを持っていたのと、ペソで支払ったほうが割安だったので、ペソで支払った。と言っても、この時は、「Down townに行く」ということから、多くの現金は携帯していなかったので、この場ではN$100程度の現金を支払い、残金は明日Tourに参加する際に支払うということにした。これは、「ホントにちゃんとホテルまで迎えにくるのかどうか不安」という理由もあった。お金だけ持っていかれて"ドロン"ではたまらないもの。こういったことは、やはり自己防衛しなければいけないこと。ここはメキシコ、日本の常識は通用しないのだ・・・・・・・(アメリカであっても同様だけど)。ちなみに、この金額は現金払いが条件で、クレジットカード払いだと手数料として1割弱高くなるとのことだった。この「現金払いが一番安い」というのは、日本から考えると当然のようだが、アメリカではあまり考えられないこと。というのは、アメリカでは、現金もカード払いも同一金額が当たり前で、場合によっては「カード払いだと現金払いより安い」ということがある。これは、「偽札の可能性がある現金よりも、カード会社が支払いを保証してくれるクレジットカードの方が、店としてはリスクが低い」という事情からくるものかもしれない。
ともかく、予約はしたので、あとは言われた通りに、「OMINIホテルの前にAM7:30迎えにいく」を信じて待つこととした。
翌日、ホテルのロビーにて待っていると、ちゃんと時間通りに迎えにきた。OMNIホテルは、ククルカン通りからちょっとだけ奥まっていて、大きなバスはホテルの目の前までは入れない。ロビーに迎えにきた添乗員らしき人の後について、ククルカン通りそばに停まっていた二階建ての大型バスに乗り込む。まだ誰も乗っていないので、「OMNIホテルに一番先に立ち寄ったらしい。ラッキー!」と2階の一番前に着席。
いくつかのホテルに寄って何人かをピックアップしたが、満席とはほど遠い。「こんなんで採算がとれるのかなぁ・・・」と余計な心配をしていると、車内アナウンス(スペイン語&英語)にて「これから受け付けの集合場所にむかいますが、Tulum(トゥルム)とXel-Ha(シェルハ)行きのTourの方は、1つ目で降りてください。
Chichenの方は、そのまま乗っていてください。」とのこと・・・・・だったのだけど、恥ずかしながら、車内アナウンスだけでは今ひとつ聞き取れな
かった(赤字の部分は理解していたのだけど)。 1つ目に停まったときに、一旦Busから降りたものの、「私はChichen Tourなんだけど、私もここで降りるの?」と添乗員に確認をした。そしたら「Chichen行きはここではなく、次です。このまま乗っていてください」
といわれ、ここでやっと聞き取れなかった部分が理解できた。(^^ゞ 一番肝心なところを聞き取っていなかったわけだ・・・ね。
言われた通りに次で降りようと準備していると、先ほどの添乗員が気を利かせて「ここで降りるのだよ」とBusの2階まで言いにきてくれた。うーむ、なんて親切なのだろう。Busを降りると、大勢の人がいた。私が乗ってきたBusは、OMNIホテルの他に3つ程度のホテルに寄っただけなのだけど、それはTourの参加者がそのホテルだけだったわけではなく、いくつかのBusが分担して各ホテルからピックアップして集合場所に一旦集めて、その後に行き先ごとのBusに分乗する・・・・というシステムのようだ。考えてみれば、合理的ではある。
受け付けの列に並んで、自分の順番になったら名前を言って(リストができている)受け付けを済ませる。このときに、残金の支払いを促された。支払いが終わって参加確認されると、右写真のような紙の腕輪(?)をつけられる。(汚い腕でごめんなさい・・・)
これは、紙とは言っても、水に濡れても大丈夫な頑丈なもので、一端がシールになっている。
腕に巻いてシール面を多端に貼ると、写真のような腕輪になるのだ。これは、Tourの参加者&支払済みを証明するもののようで、無くさないように・・・・との説明があった。このシールの部分には切り込み(?)があって、一旦剥がすと切り込みが破れて、貼りなおしても元の状態には戻らないようになっている。簡易なものではあるけど、チケット等での証明よりも、とても合理的だと思う。この受け付けで巻かれたものは、写真の緑色のものだけで、もう一つの青いヤツは、Busに乗って、下写真の現地(Chichenそばのマヤホテル)について、Busを降りてからつけられたもの。
これは、緑色のヤツはTourへの参加のためのもので、青いヤツは、同日同時刻に複数あるTour Bus毎に違うもの。帰路の際に、Busを間違えないためのもの・・・・・ということ。
受け付けを済ませて待つこと10分ほど。「Chichen Tourの方はBusに乗ってください」というアナウンスを受けて、Busに乗り込む。この日は、1号車~2号車まであって、どちらもほぼ満席状態。私は1号車だった。(つまり、往路で1号車に乗った人は、上写真の青いリストバンドということ)
Busが出発すると、車内ではChichenのウンチク等のお話が始まる。2階建てBusだったのだけど、添乗員は一人。
私は2階に座っていたのだけど、添乗員は1階で話している(声はスピーカーから聞こえる)。初めの「マイクのテストです。2階の方、ちゃんと聞こえていたら、足を踏み鳴らしてください」ということを受けて、みなで「ドンドン!!ドンドン!!」と足を踏み鳴らす。「はいはい!わかりました!そんなに踏み鳴らしたら、床が抜けるのでその辺にしてください!!」と言われて、車内は大爆笑・・・・。(^^ゞ
車内のガイドアナウンスは、スペイン語と英語。その中で「Chichenに到着したら、スペイン語のTourと英語のTourに分かれます。スペイン語は私、英語でのガイドを希望の方はxx(名前は忘れた)に付いてください」と言われた。
途中、時々うたた寝をしながら、Busに揺られること2時間半程度。
Chichen遺跡入り口にある「Maya Hotel」前に到着。上記のリストバンドを受け取り、それを全員に配っている間に、ホテル内をブラブラと探索。
このとき、「スコールに備えてホテル内でポンチョを販売していますので、よろしかったらどうぞ」ということで、ホテル内にてポンチョを購入。確か、US$5程度だったと思う。このポンチョは、MayaHotelのロゴ入りなものの、まぁ、ビニール袋に袖と首を通す穴をあけて、ついでにフードをつけた・・・・・という程度の簡易なもの。
しかしながら、結果的には、大変役にたったことになる・・・・・・・・・・(後述)。
必要なもの:Voucher Ticket(予約&支払い済みの場合)、現金(Tip+お小遣い)、日焼け止め等、カメラ(必要に応じて)、虫除けスプレー(必須かも)、ポンチョ(現地で購入可。カサは反って邪魔になる)、サングラス(必要に応じて)、防止(日陰が少ない)、スニーカー等歩きやすいクツ(ぬかるみや階段があるので革靴やヒールは不適当。そんな人はいないとは思うが)、ガイドブック等(迷うことはないと思うけど、持っていた方が色々わかっていいかも)・・・・・ってとこかな。
Maya hotelのロビー
Maya hotelの中庭
Hotel内でウロウロしていること10分程度。
リストバンドを配り終えて、「では、遺跡に向かいます・・・」というアナウンスがあって、Busの中で聞いていたとおりに、英語のガイドのグループに参加。このグループは、10人弱程度だった。
遺跡の入場料はTourに含まれているし、上述のリストバンドをしている人は「Tour参加者」なのでゲートもフリーパス。
ただし、ビデオカメラを持っている人は、「ビデオ持ち込み料」として入り口で申請&支払いを行わなければならない。
(確か、US$30程度)。これは、別に「ガイドの語りを記録するから」という意味でTour催者に支払うのではなく、遺跡の入場料の一部として支払うようだ。ちなみに、カメラ(コンパクト&一眼レフ問わず)やデジカメはOK(持ち込み料は不要)とのこと。
でも、「動画の撮れるデジカメ」の場合はどうなのだろうね?? それともう一点、三脚は持ち込み禁止。
歩き出すや、いきなり人だかりが・・・
何かと思ってみて見ると、木の幹にウジャウジャとイモムシの大群が・・・
(食事中の方、ごめんなさい)
縞模様のように見えるもの、全てイモムシです。
大きさは、ざっと20cm程度かなぁ・・・。
バカデカイです。
ここChichenは、ユカタン半島の内陸部に位置していて、気候は亜熱帯。不快なほどではないものの、ジメジメとしている(日本の梅雨時ぐらいかな)。
住居として展示されているこの建物は、この気候をうけて、風通しのために、こんな風に家の真中に穴があいているのだとか・・・。
うっそうと樹木の生い茂った中、歩道を歩くこと数分。
パッと目の前が開けると、目前にカスティージョ(ピラミッド)が。
MAYAのカスティージョは、エジプトのピラピッドとは違って、墓碑ではなく神殿。見た目は似ているものの、その建造目的は全く違う・・・。
カスティージョ前から、「戦士の神殿」方向をみる。
なぜ、こんなに人だかりがしているかというと、ちょうど「音響効果の説明」をしているところだからだ。
(これは、後述)
この「カスティージョ」は、太陽暦の1年を表すようにできている。カスティージョの外側4面は各91段の階段があり、91×4面=364。これに天辺の神殿にあがる1段を足して365。つまり、階段1つが1日をあらわしている。また、天辺の屋根飾りには各面に5つのデコレーションがあり、これは1ヶ月のウチの1日を表している。マヤ暦では、1ヶ月は20日で、18ヶ月で1年であったらしい。この360日に、「邪悪な日」とされていた5日分を足して、365日となるわけだ。
この北側階段の一番したについているのが、「ククルカンの頭部」
羽根の無いククルカン:
Chichen Itza見学のピークシーズンは春分の日と秋分の日らしい。なぜこのときが混むかというと・・・・・・
カスティージョ(ピラミッド)の北側の階段の下にククルカン(羽根を持つ蛇)の頭部だけがある。これは、頭部だけで胴体が無いのだが、年に2日だけ、昼と夜の長さが同じ"春秋分の日"に、階段の側面にできる"階段の影"が"羽"となって現れることが近年になって発見されたそうな。それをみるために春秋分の日は大混雑のようなのだが、完全な形でなくてもいいなら、3~4日ずれても見ることができるとのこと。
ククルカンとは、羽根を持つ蛇の形をした、マヤ・トルテカ族が信奉する伝説の神。
旧Chichenを造ったマヤ族は、チャック神を信奉していて、旧Chichenの時代にはククルカンは出てこない。ククルカンを信奉する部族は中央高原から侵攻してきたトルテカ族。旧Chichenのあと、侵攻してきたトルテカ族とイツァ族の混合民族によって、マヤ族は征服された。その後、トルテカ・イツァ族は、高度な文明を持っていたマヤと融合し、トルテカ・マヤ文明となってできたのが新Chichen。
旧Chichenにはみられない、新Chichenの「ククルカン」と「生贄」「戦士」といったものは、武勇を称える好戦的な部族であるトルテカ族が持ち込んだもの・・・・・・ということだ。
「金星の台座」
ここからみるカスティージョが、カスティージョの正面になる。
「鷲とジャガーの神殿」
この台座の上で生贄の儀式が執り行われ、切り落とした首を、後述の「生贄の台座」に並べられたものと考えられているようだ。
「鷲とジャガーの神殿」にある、ククルカンの頭部の飾り。
この台座の上で生贄の儀式が執り行われ、切り落とした首を、
後述の「生贄の台座」に並べられたものと考えられているようだ。
「鷲とジャガーの神殿」の外壁には、このように鷲とジャガーの彫刻がされている。ちなみに、写っている人は、「英語Tour
Group」のガイドを務めた・・・・・名前は忘れた。(^^ゞ
同「鷲とジャガーの神殿」のククルカン。
このように、ピラミッド型の神殿の4つ角全てにこのククルカンの頭像がある。
わかるかなぁ・・・右側には首をもたげた鷲があって、真中の壁にはジャガー(豹模様)が刻まれている。鷲が手にしているおにぎり型のものは人間の心臓で、その心臓を食べている様子が彫られている。
こちらの方がわかりやすいかな。
左側に鷲、右側に「オスワリ」をした体勢のジャガーが彫られている。
鷲の手には人間の心臓をつかまれていることがわかると思う。
「生贄の台座」
写真ではちょっとわかりにくいけど、石の一つ一つに、横を向いたドクロが彫られている。また、生首を手にした戦士等も彫られている。この台座は、「鷲とジャガーの神殿」のすぐ隣にあって、この上に生贄の儀式で切り落とされた首を並べたものと考えられている。
球戯場。
ここだけではないのだが、遺跡は音響まで考えられており、手をたたくと壁に反響するのがわかる。
この球戯場は、メキシコ各地にあるマヤ遺跡の中でも最大のものらしい。
この球技は「フェゴ・デ・ペロタ」と呼ばれ、競技場で競技ができたのは、身分の高い神官たちだけとされていた。
この球技のルールはテニスとバスケットボールを混ぜたもののようで、2チーム(各チーム7名)に分かれ、手に持った木のラケットでゴムのボールを打ち合い、写真のリングにボールを何回通したかを競う。競技終了後は「死の儀式」が執り行われ、勝ったチーム(負けたチームではない)の代表が生贄となって、首を切り落とされて死んでいった。これは、生贄となって死んでいくことは、彼らにとっては「使者として神の世界に行く」ということを意味しており、とても名誉なものであったから・・・・とのこと。
「生贄として死んでいった者は、天国の最上階に入っていける」と信じられていたので、死んでいく本人も、その親族も、喜んでこの「死の儀式」に参加したのだそうだ。